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先日Facebookに挙がってきた、知らない方のポストを読んで考えたことと、
友人の著作がつながるかも、と思って書いてみます。
わたしが座長を務める川崎市ひきこもり支援ネットワーク会議。
昨日は前回に引き続き、昨年1月に厚労省から出された「ひきこもり支援ハンドブック」作成の際の委員長だった、元たまりば理事の長谷川俊雄さんに来ていただいて、研修を行った。
その内容が夢パークで子ども・若者から教えられてきた「大人の良かれは、子どもの迷惑」に重なる、ドンピシャの内容だった。
「なぜ、私たちは本人の困難を“勝手に解決しよう”とするのだろうか?」。
親・援助職・市民が「解決したい」「援助したい」という欲望を満たすことを優先していないか?
「あなたのため」という親・援助職・市民であるわたしの思いや考えは、実のところ「あなたのため」ではなく「わたしのため」になっていないだろうか?
本人を援助すること・救い出すことを繰り返すことをとおして、本人の主体性を少なくしたり、無力化したりすることになっていないだろうか?
その人を変えようとすることをやめる。
変えられるのは本人じゃない。
その人を取り巻く環境を変える。
「支援と暴力は紙一重」。
情・経験・多数派価値観で支援することは暴力になる。
なんと刺激的な研修会。
私たちの足元を見つめなおす大切な時間だった。
私が考えたこと
自分が受援側である場面もあるし、サポートする側になる時もある私としては、非常によくわかる文章。
支援側の自己満足のために利用されてる気持ちになる。
接する人によっては、なるほどそうだろうな。
支援側が聞き取りも不十分なままに「こうなったらいい」に当てはめさせようとする動きは非常に不快で、
受援側が「どうなりたいか?」を尊重しようとしない支援が害悪ですらある場合もあって。
「学校行きたくない!」
子どもに何かあった場合、本人じゃなくて親に【課題の分離】が求められるんだけど。
親にその準備ができてるかどうかに関わらず唐突に突き付けられるので、慌てふためくのですな。
そして親が「これは自分の問題だ」と気づくまでにはタイムラグがあって。
その間に子どものほうをどうにかしようとしてしまうと、関係性が損なわれる気がする。
長男が学校行かなくなって1年半以上。
最初の頃はずっと家に居られるのが辛かったー。ひとりになりたくてイライラしてた。
彼が登校できる条件とか、状況とか、その他いろいろ担任から聞かれるけど、自分のこととちゃうねんから、そんなん私知らんがな、だったし、
直接本人に聞いてくださいってどんだけ言ったか。
本人にも別に何かがあるわけじゃない。
それらしいことを言ってた時もあったけど、それが主因でもなかったり。
余計な出費 家計のピンチ
あと、私は準備しないけど、食べるものが偏ってしまったので、食べるかどうかわからない昼食を買っておくというのも辛かった。
給食があるのに。
ひとり親で子どもが学校に行かなかったら、働き方を変えざるを得ないし、
学校で得られるはずだった知識や経験を補うために、別でいろいろ手配しなきゃいけないと思ってしまうから、費用負担がすごい。
以前、にじいろなんちゃら、とかをやっている人に「不登校のケアはお金かかるでしょ」って言ったら、「お金かかって当然!」って。
自分たちは夫の稼ぎで特に働かずに生活してて、義務教育で与えられない教育の追加費用をあっさり払って、
それで「私の経験をもとに他人のサポートしてます」っていう体で。
さも優し気だけど、それ実は自己満じゃないの?って。
ムカついて、
「お金かけるだけならアドバイスでもサポートでもなんでもないわ、
そうできない人のことも助けられないなら、そんなのやめちまえ!」と思ったこともあった…。
そうです、荒れます。荒みます。
そんな時を経て
今は(時々ブチギレますが)長男とは思春期の割に平穏に過ごしているように思っています。
子どもの人権を尊重するという、当たり前のことを叩きこんでくれた。
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